本文ノート
質量保存の法則は、物質が化学変化や状態変化を起こしても、物質の総量に検出できる変化は生じない、という法則です1。身体は呼吸、飲食、発汗、排泄で物質が出入りする開いた系なので、数時間から数日の単位では質量は変わります。しかし、立つ、歩く、しゃがむといった動作を評価する数秒から数分のあいだ、身体の質量はほとんど変わりません。動作の中で変わるのは、質量がどこに配置されているかと、重心がどう加速しているかです。
ここで質量と重さを区別します2。質量は物体の物質の量で、慣性の大きさを表し、単位は kg です。重さ(重量)は物体に働く重力の大きさで、W = mg、単位は N です。「体重60 kg」は質量で、地球上での重さは 60 × 9.8 ≒ 588 N です。月面では重さは約6分の1になりますが、質量は変わりません。
体重計が直接測っているのは、体が台を押す力です。表示はそれを、静止しているという前提で質量に換算した値です。重心が鉛直方向に加速していると、台が体を押し返す力は m(g + a) になり、表示も変わります2。体重計の上で素早く立ち上がると、上向きに加速する瞬間は表示が増え、減速する瞬間は減ります。質量60 kg の人が上向きに 2 m/s² で加速すれば、台を押す力は約708 N で、表示は約72 kg 相当です。質量は1グラムも変わっていません。
患者が「体が軽くなった」と言うとき、それは質量が減ったという意味ではありません。動き出しが楽になった、支えやすくなった、力みが減ったという感覚を「軽い」という言葉で表している可能性があります。この翻訳ができると、体験を否定せずに、何が変わったのかを一緒に確かめられます。
重心は質量分布で決まる
重心(CoM)は、各部分の質量にその位置を掛けて足し合わせ、総質量で割った点です3。
x(重心)=(m1·x1 + m2·x2 + …)÷(m1 + m2 + …)
身体の各部位の質量の割合は、若年成人を対象にした計測をもとにした推定値がよく使われます。男性の平均では、頭頸部が体重の約6.9%、体幹が約43.5%、上腕が約2.7%、前腕が約1.6%、手が約0.6%、大腿が約14.2%、下腿が約4.3%、足部が約1.4%です6。片腕全体で約5%、片脚全体で約20%になります。腕を動かすより、体幹を傾ける方が重心は大きく動きます。
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計算例:荷物を前で持つ
体重60 kg の人が、10 kg の箱を自分の重心から水平に 0.35 m 前で持つと、合成重心は (60 × 0 + 10 × 0.35) ÷ 70 = 0.05 m、約5 cm 前へ移ります3。足の長さが 25 cm 程度なら、合成重心の真下はまだ足の範囲に収まりますが、つま先に近づきます。静止して立つには、圧中心もその真下まで前へ移す必要があります。
足関節で考えると、静かな立位で重心が足関節の 5 cm 前にあると仮定した場合、底屈筋が支えるモーメントは 588 N × 0.05 m ≒ 29 N·m です。箱を持つと、総重量は 686 N、作用線は足関節の約10 cm 前になり、約69 N·m と2倍以上になります。荷物の質量は総質量の約14%しか増やしていないのに、モーメントが大きく増えるのは、配置が前へ移ったからです(モーメントとてこの腕)。
計算例:両腕を前に上げる
両腕は合わせて体重の約10%です6。体の横に下ろしていた腕を前へ水平に上げ、腕の重心が約 0.3 m 前へ移ったとすると、全身の重心は 0.10 × 0.3 = 0.03 m、約3 cm 前へ(同時に少し上へ)移ります。実際には、腕を上げる前から体幹や下肢の筋が働き、骨盤をわずかに後ろへ引くなどして重心の移動を打ち消そうとします(重心・圧中心・支持基底面)。腕の動きで重心が体の外へ大きく飛び出すことはありません。
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慣性モーメント:同じ質量でも回しにくさが違う
並進のしにくさを決めるのが質量なら、回転のしにくさを決めるのは慣性モーメントです。
I = Σ m r²
r は各部分の回転軸からの距離です4。距離の2乗で効くため、同じ質量でも軸から2倍離れれば、回しにくさへの寄与は4倍になります。遊脚期に膝を曲げると、下腿と足部の質量が股関節に近づき、脚全体の股関節まわりの慣性モーメントが小さくなるため、同じ筋のモーメントでより速く振り出せます。逆に、膝を伸ばしたまま脚を振ると、慣性モーメントが大きく、振り出しに大きなモーメントが必要です。
外からモーメントが働かなければ、角運動量(L = Iω)は保存されます。腕を広げて回転していたスケーターが腕を体に引き寄せると、慣性モーメントが小さくなり、回転が速くなるのはこのためです5。方向転換で腕を体に近づけると回りやすく、腕を広げると回転がゆっくりになるのも同じ関係です。
「重さ」の感じ方は質量だけで決まらない
手に持って振る物体の重さの感じ方を調べた実験では、質量、大きさ、静的なモーメントを変えずに慣性モーメントだけを変えると、感じる重さが変わりました7。重さの感覚は、質量そのものより、その物体を動かすときの回転の力学に結びついていた、という結果です。手に持つ物体での実験なので、全身の感覚にそのまま当てはめることはできませんが、患者の「重い」「軽い」という言葉が質量の報告ではないことを考える手がかりになります。
開いた系としての身体と、データの限界
数日単位では、むくみ、水分の出入り、食事によって体重は変わります。体重の推移を見るときは、同じ時間帯、同じ条件で測ります。部位の質量の割合は、大学生年代の白人男女を対象にした計測を補正した推定値で6、年齢、体組成、肥満、妊娠、切断などによって実際の分布は変わります。計算は目安として使い、個人の体型を観察で補います。
セラピストが見るべきこと
| 質量と重さ | kg と N を区別する。動作中の体重計の表示や床反力は、質量ではなく加速度を含んだ力を表している。 |
|---|---|
| 配置 | 頭部、体幹、腕、荷物がどこにあるかを見る。体幹は全身の約43%を占め、その傾きは重心を大きく動かす。 |
| 合成重心 | 荷物、子ども、杖、作業道具を持つときは、人と物を合わせた重心で考え、圧中心がどこまで移るかを見る。 |
| 回しにくさ | 方向転換、振り出し、道具を振る動作で、質量が回転軸から遠くにあるかを観察する。 |
| 時間の尺度 | 動作評価(数秒)と体重の推移(数日以上)を分けて扱う。 |
| 言葉 | 「軽い」「重い」を質量の報告としてではなく、動き出し、支えやすさ、力みの変化として聞き直す。 |
臨床での使い方
荷物を持つ、子どもを抱く、洗濯物を干すといった生活動作では、人と物を合わせた重心で考えます。荷物を体に近づけると、合成重心の移動も、腰や足関節のモーメントも小さくなります。前へ荷物を持つ作業でふくらはぎや腰がつらい患者では、荷物の質量を減らせなくても、配置を変えることで支える量を変えられます。
歩行や方向転換では、質量の配置が回しやすさを変えます。遊脚期に膝が曲がりにくい患者は、脚の慣性モーメントが大きいまま振り出すことになり、股関節の屈筋に大きなモーメントが求められます。方向転換が怖い患者では、腕の位置や体幹の向きを含めて観察します。
患者が「軽くなった」と表現したときは、「何が楽になりましたか」と尋ね、動き出し、立ち上がり、歩幅、痛み、疲れ方のどれが変わったのかを具体的にします。言葉を力学の量に置き換えておくと、次の評価で比べられます。
患者説明への変換
体の重さ(質量)は、動作の途中で増えたり減ったりしません。変わるのは、重さがどこにあるかと、体がどう動いているかです。
患者には、体重計の上でゆっくり立ち上がると目盛りが動くことを見てもらい、「体重が変わったのではなく、押す力が変わった」ことを体験してもらいます。荷物を体に近づける、腕を体に寄せて方向転換する、といった工夫は、同じ重さを支えやすい配置に変える方法だと説明します。「軽くなった」という感覚は大切な変化として受け取り、何が楽になったのかを一緒に言葉にします。
