本文ノート
ベクトルとは、大きさと向きをもつ量です。質量や時間のように「どれくらい」だけで表せる量はスカラーと呼びます。力、速度、加速度、運動量はベクトルで、「どれくらい」と「どちら向き」の両方がそろわないと決まりません1。歩行や姿勢を読むときに力を数字だけで扱うと、同じ大きさの力が関節のどちら側を通るのか、つまり身体のどこに仕事が集まるのかが見えなくなります。
最初に整理しておきたいのが単位です。力のSI単位はニュートン(N)で、1 N は質量1 kg の物体に1 m/s² の加速度を生じさせる力です(1 N = 1 kg·m/s²)5。日常では「体重60 kg」と言いますが、60 kg は質量です。地球上でその身体に働く重力は、重力加速度を約9.8 m/s² として 60 × 9.8 ≒ 588 N になります。古い文献に出てくる kgf(重量キログラム)は 1 kgf ≒ 9.8 N で、現在の論文では N、または体重で割った値(×BW、N/kg)で表すのが一般的です。体格の違う人を比べるときは、この正規化された値で読みます。
臨床で力を読むときは、次の四つをそろえます。大きさ(何N か)、向き(鉛直から何度傾いているか)、作用点(足底のどこ、手すりのどこに加わっているか)、作用線(作用点を通り力の向きに引いた直線)です3。モーメントの大きさを決めるのは四つ目の作用線で、作用線と関節中心との垂直距離が長いほど、その関節を回そうとする働きは大きくなります。詳しくはモーメントとてこの腕で扱います。
身体は三次元で動きますが、最初は横から見た矢状面の二次元で十分です。足が床に触れた瞬間の床反力を一本の矢印として描き、その矢印が足関節、膝、股関節のどちら側を通るかを見るだけで、観察の順番が決まります。
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合成:力を足し合わせる
複数の力が同じ物体に働くとき、その効果は矢印を順につなげた合力(ベクトル和)で決まります1。たとえば鉛直上向き300 N と前向き100 N が同時に働けば、合力の大きさは √(300² + 100²) ≒ 316 N、向きは鉛直から前へ約18°です。大きさを単純に足して400 N とはなりません。身体の重心がどう加速するかを決めるのは、この外力の合力です(ニュートンの運動3法則)。
分解:成分に分ける
逆に、一本の斜めの力は、直交する軸の成分に分けられます2。鉛直から角度θ傾いた大きさF の力なら、鉛直成分は F cosθ、水平成分は F sinθ です。歩行の接地直後に、650 N の床反力が鉛直から後方へ12°傾いていたとすると、鉛直成分は約636 N、前後成分は約135 N になります。鉛直成分は身体を支え、後ろ向きの前後成分は前へ進む身体にブレーキをかけます。
歩行の床反力は、鉛直・前後・左右の三成分で記録されます。健常男性の計測では、前後成分のピークと左右成分の振れ幅は、平均すると鉛直成分のおよそ10分の1程度でした6。小さく見えますが、前後成分がなければ加速も減速もできず、左右成分がなければ左右の足へ重心を受け渡せません。
座標系と符号
成分を扱うには、どの方向を正とするかを先に決める必要があります。前向きを正とするか、後ろ向きを正とするか、研究ごとに決め方が違います2。論文のグラフを読むときは、軸の向きと、値が体重で正規化されているかをまず確認します。
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自由物体図の描き方
自由物体図は、対象を一つ選び、その対象に外から働く力だけを描いた図です3,4。手順は次のとおりです。①対象を決める(体全体、足部、下腿など)。②対象だけを周囲から切り離して輪郭を描く。③外から働く力をすべて矢印で描く。重力は対象の重心から下向きに mg、接触している面からは押す力(法線力)とこすれる向きの力(摩擦力)、切り離した境界では隣の体節からの関節反力や、腱が引く力を描きます。④座標軸を決め、ΣF = ma(並進)と ΣM = Iα(回転)を当てはめます。
内力と外力
体全体を対象にすると、筋力は体の部分同士が押し引きする内力になり、図には現れません。内力は対象の内側で作用と反作用の対になって打ち消し合うので、体全体の重心の動きを変えられないからです。重心を加速させられるのは、床反力、摩擦力、手すりや杖から受ける力などの外力だけです。一方、下腿だけを切り出すと、膝蓋腱が脛骨を引く力や、大腿骨から受ける関節反力は外力になります。どこで切るかで、同じ力が内力にも外力にもなります。
作用線から関節モーメントを推定する方法とその限界
床反力の作用線を関節に重ねて関節モーメントを推定する方法は、臨床で便利です。ただし、体節の重さや加速度を無視しているため、より厳密な方法(リンクセグメントモデルを用いた逆動力学)と比べると、足関節での誤差は小さい一方、膝、特に股関節では、踵接地や蹴り出しの前後に大きさや向きまで誤ることがあり、歩行速度が上がるほど誤差が大きくなると報告されています7。逆動力学は、足部から順に各体節の自由物体図を解いていく方法で、標準的な教科書で手順が示されています8。目で見て矢印を描く方法は、仮説を立てる道具として使い、結論は控えめにします。
圧力はベクトルではない
足底圧は力と混同されやすい量です。圧力は面を垂直に押す強さを面積あたりで表した量(Pa = N/m²)で、それ自体は矢印のような向きをもちません。足底圧の分布を面全体で合計すると鉛直方向の力になり、その分布の中心が圧中心(CoP)です。一般的な足底圧計は面に垂直な成分だけを測るため、ずれの力(せん断)や摩擦は読めません。
セラピストが見るべきこと
| 単位 | kg(質量)と N(力)を区別する。比較するときは体重で正規化した値(×BW、N/kg)を使う。 |
|---|---|
| 作用点 | 足底のどこに荷重の中心があるか、手すり、杖、座面のどこに力を預けているかを見る。 |
| 向き | 力が鉛直からどちらへ、どのくらい傾いているかを見る。傾きは水平成分の大きさと、必要な摩擦を決める。 |
| 作用線 | 作用線が足関節、膝、股関節の前後左右どちらを、どれくらいの距離で通るかを推定する。 |
| 対象の切り方 | 体全体を見ているのか、足部や下腿だけを見ているのかを決める。それによって外力と内力が変わる。 |
| 推定の限界 | 目視の矢印は仮説にとどめる。近位の関節ほど、作用線だけによる推定の誤差が大きい。 |
臨床での使い方
歩行や立ち上がりを横から撮影し、静止画の上に床反力の矢印を描いてみます。正確な大きさは分からなくても、向きと作用線のおおよその位置は推定できます。踵接地の直後なら矢印は後ろへ傾き、膝の後方を通ることが多く、立脚の後半には前へ傾きます。この見方を持つと、「膝が弱い」とまとめる前に、膝にどちら向きの外部モーメントがかかる局面で症状が出るのかを問えます。
立ち上がりでは、重心を前上方へ加速させる必要があります。足だけで行うなら、床から前向きの水平成分を受け取る必要があり、手で座面や手すりを押すなら、その反作用が手から体へ入る外力になります。どちらで外力を得ているかを観察すると、介入の候補(座面の高さ、足を引く位置、手の置き場所)が力学の言葉で整理できます。
足幅、歩幅、速度、杖、荷物の位置、靴などの条件を一つずつ変えて、矢印の向きや作用線の位置がどう変わるかを観察します。変化が症状や動作のしやすさとどう対応するかを記録し、仮説を確かめていきます。矢印の推定には誤差があるので、一つの観察で原因を決めつけず、条件を変えたときの反応で判断を重ねます。
患者説明への変換
体には、いろいろな向きから力がかかっています。同じ体重でも、力がどの向きに、関節のどちら側を通るかで、体の受け止め方は変わります。
患者には「力には向きがあります」と短く伝え、手のひらを壁に垂直に押す場合と斜めに押す場合を比べてもらうと、同じ力でも滑りやすさや腕の踏ん張り方が変わることを体験できます。歩き方や足の置き方を変える提案は、体を正しい形に固定するためではなく、力の通り方を変えて、動きやすい条件を一緒に探すためだと説明します。
